日記の履歴 A
第 2 集 恐山への旅 2000.10.16〜18



恐山への旅(2000年、10月16,17,18)  冬瓜
恐山へ その1
 2年前「ダンプに轢かれても死なない」と豪語していた兄が、あっけなく逝ってしまった。こどもがいないせいもあるのか、それ以来兄嫁は凍り付いて慰める手だてもなくなった。思案に暮れた時思いつきで「じゃあ恐山へ行って、いたこによんでもらおう」と言うと兄嫁は飛びついてきて私は引けなくなり、小国民の姉共々今回の恐山への旅となった。 恐山の大祭は年2回、7月と10月だというので季候の良い10月を選んだ。姉は「連れて行ってくれれば、ナンだって良いからね」と言いながら、「汽車からゆっくりと外の景色を見たい、 温泉ぐらい入りたい、泊まる所もくつろげなきゃ、長いと疲れる」なんて言いたい放題。デキタ妹の私は、姉の希望に添うべくピーマン頭を苦労して2泊3日の日程を組んだ。


恐山へ その2
 東京発8時52分、やまびこ7号は姉たちの注文通り黄金の波打つ田圃の中を北を目指し、「稲刈りの後は落ち穂ひろいやったわネ」「そ、イナゴとりも」と、話が弾んでいる。さらにお喋りは「イナゴの佃煮の作り方」へと進み、イナゴの羽を取るとか取らないとかでもめているが、残念ながら私の入って行ける話題ではない。 野辺地で途中下車して遅い昼食。ホタテの産地と聞いて来たので、さてホタテの何にするか大いに迷ったが、食堂で隣の人が食べているおそばが美味しそうに見えたので、みんなホタテそばを注文した。
これがおそばもホタテもそばつゆも大変に美味しく、つゆが全部飲みきれないと残念がった。そう、他にホタテ焼き、ホタテフライも注文したので。腹ごなしに駅の近くをぶらりと見物。メインストリートは人影もまばらで、ナナカマドの街路樹は赤い実を付け坂の下まで続いていた。野辺地発15時41分、2両だけの大湊線が終点大湊に到着した時あたりはとっぷりと暮れていた。


恐山へ その3
 旅の2日目は下北半島一周の観光バスに乗った。
始発は田名部だが乗客の3分の2は、私たちと一緒に大湊から乗り込んだ。但し乗客といっても総勢13名だが。仏ケ浦遊覧船と昼食が付いて1人7千円。観光バスの昼食と言ったら冷たくてまずいが通り相場だが、今回は新米のほかほかご飯、イカとぶりのお刺身は新鮮、おまけになめた鰈の煮付けまで付いていてみんな大満足だった。「これではバス会社は赤字じゃないかしら」と姉はいらぬ心配までする。
さてバスに乗り込んだとき、一番前の座席左右に1人ずつ陣取っていた同年輩の姉妹が、二人して私を無遠慮に眺め回し、自分たちの後ろが明いているからここに座れと仕切る。何故かは後で分かったが。・・所でガイドさんはベテランで逐一丁寧な説明をしてくれた。
特に下北半島の産物や野草の料理方法がとても詳しい。ホタテの貝殻からだしが出るなんて話は初めて聞いたし、「この川は鮭が遡上します。干したり塩漬けにしたりしますが、頭とアラにジャガイモを入れて煮ると石狩鍋になります。
このあたりは昔はお昼はじゃかいもと決まっていました。脇野沢ではタラが沢山取れます。3枚におろして干しますとちょうど良い潮風に当たって、いい干物が出来て各地へ出荷しますが、頭とアラだけ別に売っています。これにいろんな野菜を加えて煮込んだのがじゃっぱ汁で、普通は味噌で味付けしますが私が作ると醤油で味付けます。」とこんな調子。そこへ件の2人姉妹が「うんうん、あたし等も作るけどやっぱり味付けは味噌よ。で、野菜はどんな形に切る?うちらは全部四角い賽の目に切るけど」と割り込む。「それはけんちん汁ではないですか」とガイドさんも話に乗って、お仕事を忘れて山形弁と南部言葉でのやりとりは聞いていても殆ど理解出来ない。     日本語って豊かですね。


恐山へ その4
 観光バスは走るよどこまでも〜。お天気はまずまず。運転手さんの腕は確か。
ガイドさんと山形のおばさん代表お二人の舌もますます快調。料理談義はきのこ、ワラビ、ぜんまい、ふきのとうと山菜へと移っている。「で、あんたとこはふきのとうはどうやって食べるの」いきなり山形のおばさんが、バスの椅子越しに後ろを向いて私に尋ねる。 「え、うちの方は3つ150円ぐらいで売っています。」「あ、買うのね」とそれきりで興味を失う。アケビは中身を食べるか皮を食べるかでまたひとしきり揉めていたが、アケビの中にきのこや挽肉を詰めて蒸すという料理方法は同じだったらしい。これも又私には初めて聞く料理法で、勿論食べたこともない。
 所でうちの姉もこの間まで(買い出しを思い出すから)キライと言っていたリュックに、お菓子や飴を沢山詰めてきてバスの中で配っている。 で、山形二人組とも近しくなって、彼女たちも恐山が目的であることを聞き出していた。彼女たちはむつ市に姪ごさんがいるとかで、いたこに関する情報をかなり集めていて教えてくれた。
 そのうちにガイドさんが旅の座興にと、いたこの語り口を真似てくれた。それは御詠歌を詠うようなおきょうを読むような不思議な抑揚を持ち、何となく気持ちが引きずられていく。 そしていたこに頼むときは、おろして貰う人の命日と性別を言うだけでいいと教えてくれる。 私たちは何故か、緊張した。


恐山へ その5
 「いたこさん達はそれぞれ束ねる人があって、青森から来る人達と、八戸から来る人達があります。山門を入るとすぐに小屋が並んでいてその中に1人ずつおります。小屋の中には名札も下がっております。ただ、おろして貰った人もいたこさんのそれぞれの土地の言葉で話します。他の人がおろして貰っているのを、立って聞くのは自由ですから言葉が聞き取れる人を選んだらいいと思います。」「通訳してくれるような人は居ないんですか。それにどんな人を選んだらいいんでしょうか」と私の姉。「通訳してくれるような人は居ません。やはり沢山人が並んで居るところがいいのではないでしょうか」ガイドさんの説明を聞いて、なんだかうまいものやの行列と同じようで、心許ないなとぼんやり考えていると、「でも、この人と言う人がおるでしょう」と、山形代表が鋭く突っ込む。凄い、さすが、冷静。私はと言えばあの御詠歌を聞いた時から、すっかり気持ちが舞い上がってしまっている。「えー」とガイドさんは少し、言いよどむ。
「いたこさんは全体にとても高齢化しておりましす。青森から来られる《まやまさん》と言う方がいい、良く当たると言われております。ただ来られているかどうかは分かりません」私は慌てて手帳を出して《まやまさん》とメモる。私の連れは私以上に舞い上がって居るに違いないから。


恐山へ その6
 観光バスは下北半島のまさかりの形の外側を、時計回りに下から上へとなぞるように走ってゆく。 田名部、大湊、川内、脇野沢、佐井、仏ヶ浦そしてNHK朝ドラ「私の青空」の舞台となった本州最北の町大間町へと着いた。「私の青空ロケMAP」なるものがあり、横町の路地にまで青空通りなんてちゃっかり命名してある。ドラマの伊東四郎、加賀まり子夫婦の家のモデルは40数年前、1本釣り漁師の浜端さんと言う人が大物マグロを仕留めて建てた家とかで、これも又おおきな看板が立っていた。「あの神社がなづなが結婚式を挙げたところで御座います。この通りをなずなが健人を追いかけて走った道で御座います。あのフェリー乗り場の突端が、伊東四郎がひそかに娘を見送った所で御座います。」と、ガイドさんはこの夏、何度繰り返したのか説明に淀みがない。私たち乗客は「かっちゃの即売所」で降ろされた。そこは舞台付き30畳位の集会所で、なにがしかの土産物が並んでいる。「べこもち」とやらも試食した。件の山形2人組はべこもちを一口食べると「まづい」とさけんだ。(単に、地声が大きいのかも知れないが。)回りの者がはっとして振り向くと同時に、べこもちを売っていたかっちゃたちが「うまい」と大声で叫び返し、一同はなんとなくほっとした。この勝負は引き分け。べこもちは「ういろう」をもうすこし素朴にした感じで、私にはまずくはなかった。
 バスは元祖「烏賊さまレース」の風間浦村を抜け、硫黄の臭いがする海沿いの下風呂温泉へと到着。ここで山形2人組ともう2人が降りた。私たちが今夜の宿、薬研温泉についたのは5時30分。山中でもありあたりはとっぷりと暮れ、寒さが身に凍みてきた。


恐山へ その7
 「ここはさ、バブルの頃建て増し、建て増しして団体客をじゃんじゃん入れたのよね」宿についてほっとした姉の口が軽くなる。私たちの部屋は新館といってもエレベーターを降りてからまた3,4段の階段を上り下りした所だった。部屋にはいるとテーブルの茶托の上にカメムシを1匹見付けた。仲居さんは「この時期はしょうがないんですよね。ガムテープをここに置いておきますから又居たらこれで取って下さい」という。せせらぎの音は聞こえるが、窓は開けてはいけないと言うし第一真っ暗で何も見えない。夕食は皿数だけはあるものの「これなら板さんはいらないわね」と姉の言うとおり。
 しかしお風呂だけは無色透明の単純泉、つるつるしていい温泉だった。
いたこの口寄せは朝6時頃から始まるので、なるべく早く行った方がいいと聞かされて居たので、宿に着いてすぐに8時に来てくれるように車を頼んだ。しかしここの仲居さんは朝食は7時前でも出来るので、もっと早くしたほうが良いという。助言に従ってタクシーの時間を7時30分にして貰う。そう言えば、ホテルの玄関に「恐山と下北半島」「恐山と八甲田」「恐山と古牧温泉」なんてツァーの看板が掛けてあった。
こころにわだかまりを抱えた人達が、はるばるこんなに大勢やってくる。 義姉は、ときたま鼾もかいて良く眠って居る。姉は2,3時間おきに暗闇の中で話しかけて来る。5時になるのを待って朝風呂に浸かり、そのまま起きた。


恐山へ その8
 10月中旬の下北半島の空は青く澄み渡り、高い。
門前にまだ観光バスの姿はなく、車や人は少ない。人出を当て込んだ幾つかの屋台も準備中で、恐山の1日はようやく動き出したところのようだった。それらが額縁の中の風景のようにまったく音を感じないのが、不思議だった。 山門を入ると教えられた通りすぐ左に「いたこの口寄せ」と看板が建ててあり、一列に小屋が並んでいた。
 いたこの小屋は低い跳び箱を横転した型をしている。入り口は1.5メートル×1.5メートル、奥行きは2メートル位。入り口をよけて、ぐるりと黒い布で包んである。そんな小屋がくっついて11こ並んでいた。
 既に、いたこの口寄せは始まっており、小屋の幾つかには並んで待つ人も見えた。
端から中の名札を見て歩いたが、まやまさんはいない。サテどうしようかと振り返ると、姉たちが宿で「小笠原さん」と言う名もしっかりと聞いて来ていた。 そしてその小笠原さんは、丁度列のまん中あたりの小屋というより暗い穴蔵の一番奥に、ずっしりと鎮座していた。70才はとうに過ぎた感じで厚いガラスのめがねをかけ、和服を着ぶくれかつ膝には毛布が何枚か掛けてある。その前には仏壇のお供物のように、柿、林檎、ワンカップ、ヤクルト、ジュース、菓子などが雑然と置いてある。(後で聞いたが、それらは降ろして貰う人の好物だった品物なのだとか)その又手前に、細長い座布団の様な物が敷いてある。 ここは穴蔵の中に1人、入り口に2人立っているのでその後ろに立ち、しばらく待ってから前の人に「順番を待っているのですね」と声を掛けると違うという。いま降ろして貰っている人の知り合いの様だった。中の人は終わったらしく、立ち上がろうとしているがよろけてうまく立てない。外で待っていた人に「ほら、お金を払わなくちゃ」と注意されて、「ああ」といって慌てて財布を出したが、そこでもうまくお札をつまみ出せないで苦労している。
 私たちはそれをはらはらしながら見守り、その人に替わって小屋の中に入った。 まん中に兄嫁、左に姉、右に私が座った。


恐山へ その9
 穴蔵のような小屋の中に座ってみると、いたこの小笠原さんの方が少し高くなっている。
彼女は神懸かりと言うより、頼りになるばぁちゃんという感じがする。
義姉は座りながらうわずった声で「○○をお願いします」と兄の名を言った。私はアレ?と思ったが言ってしまったものは仕方がない。この旅行が決まってから義姉もいろいろと聞いたらしく、「違う人が降りてくる時もあるそうよ」と心配していたので、どうしても本人に会いたい気持ちが、名前を言ってしまったに違いない。この時姉は義姉を突っついたそうだが、後で本人はどうしても兄の名前を行った覚えがないと、言い張った。
いたこは兄の名前を聞いて「お子さん?だんなさん?」「行方知れず?亡くなった?」と聞き、義姉は子供は無く、夫は病死であることと、命日を言った。いたこはそれを聞くと、直径6,70センチはある黒い玉の大きな2連のお数珠を取りあげ、なにやら唱えながら拝みだした。 私はそれを聞きながら身の置き所、目のやり場に困りうつむいて目を閉じた。
いたこの唱えは5分位続いただろうか。突然口調、声まで変わって「こんな遠いところまで良く来てくれた」と、語りだした。それを聞いたとたん、鼻、喉の奥がつまるわけでなく、目頭が熱くなることもなく突然にハラハラと涙がこぼれ落ち、止まらなくなった。 うれし涙でもなく、哀しい涙でもない。気障にきこえるのを承知で敢えて言えば、自分自身をも含めた、限りある命を持った人と言う存在への哀惜と言うのが一番あのときの気持ちに近い。
 語りは続いて発病した前後のこと、1回目の入院の時のこと、そのご覚悟しなければならなくなったときの気持ち、義姉への思いを切々と語り今後の生活のあれこれを、細かいところま義姉に話しかけた。
始まった時と同じように突然、いたこの声が平静に戻り「なにかもっと聞きたいことはないか?」と問うた。義姉は「なにかある?」とわたしを振り返ったが、あるはずがない。義姉は「帰ってきて」と叫びたいのを必死にこらえているのを分かっていて、私が言う言葉などない。義姉は「あちらはどんな風でしょうか?何かもっと私にやって貰いたいことはないでしょうか?」と聞く。
いたこは今度は普通の声で、「あちらもいろいろと段階があって、それなりに忙しい」と分かったような分からないことを言う。「ま、普段の供養をしっかりとやりなさい」と月並みなことを言って、終わった。


恐山へ その10
 「あれは絶対に兄よ。言葉に力が足りないけど」と姉は言い切った。
「アタシは最初からお終いまで、じっといたこを見つめていたわよ。折角遠いところから来たのに、どんなことを言われるかと思ってね。」 私はこの迫力に負ける。でも姉も泣いたらしい。
 肝心の義姉は涙も見せず、身を固くして無言のまま。私は両肩が重くて、全身の力が抜けてしまったようで、立とうとしても足に力が入らない。
 姉が「お金」と義姉を促している。見料と言うのか代金は3千円。意外な安さだった。
観光バスで出会った山形の2人組が、「3千円だか5千円らしい」と言ったが、その時私は「鍼やマッサージでさえ5千円だから、それ以下と言うことは無いでしょう」と言った。帰ってから聞かれた人に説明すると、どの人も「意外に安い」と驚いていた。立ち上がろうとして名刺箱に気がついて、断って義姉にと1枚いただいた。
八戸の住所がしるしてある。
 小屋から外に出ると、すべては終わった、体力気力を使い果たした感じがして、境内の見物をする気もなかった。それでも本堂までは歩いてかたちばかりの参拝をした。
「もうどこも見なくても良い。もう帰ろう」と姉が言う。でもまだ8時30分。帰途は三沢発最終便19:30を予約してある。 どうしよう。


恐山へ その11
 恐山から帰って1週間経った。「ねえ、どう思う?」「あれはホントだったと思う?」「ホントだったと思いたいのよネ」と、姉は遠い目をする。
 義姉は電話での声が何となく明るくなった様な気がしたが、焼き増しした写真を届けに行った時に聞いてみた。
 「幾らかは気が済んだ?」「済んだ。今まで毎日毎日早く迎えに来てって拝んでいたけど、もうしない。今度行くときは、飛行機はあぶなくてイヤ」と言う。
 ええっ!義姉はまた行くつもりなんだ。私はもういい。もう行きたくない。
あそこは、時間が停止している3次元の空間に違いない。
 とにかく恐山への旅はこうして終わった。


注)冬瓜とは私のパソコン上の名前です。

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