
心の声のページ
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| これは我が家にある「幸福の木の花」です。2005年6月24日に開花しました。 | |
| 「過労死遺族の心のケアを考える会(2004年3月20日)」にて |
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1. 自己紹介 2. 労災申請から認定までの経緯 ・理論武装 ・戦略構想 3. 臨死体験と奇跡の生還 ・二度の臨死体験 ・どうして助かったか? 4. 私の役割と使命 ・メッセージを伝える役割 ・過労死のない社会を築く使命 5. 過労が極限に達したときの心理状態 ・頭の中は仕事のことばかり ・病気の不安と過労死の予感 ・現実逃避を考えた(自殺や退職) 6. そのときの家族とのかかわり ・会話の減少 ・妻の助言に耳を貸さない ・退職願いの提出と撤回 7. 当時の気持ちを振り返って思うこと ・ 強制された自発性 ・ 成果主義 ・ 過重業務は人の心を変える 8. 大切な家族に伝えたいこと 「心の声」‥‥五つの言葉
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まず初めに自己紹介をさせていただきます。 私が生まれ育ったところは、山梨県の下部という温泉のある町でした。 この世に生を受けたのが昭和25年ですので、現在の年令は53才です。 住まいは千葉市の花見川区というところにあります。 家族構成は妻と一男二女の5人でしたが、長男が結婚して外に出ましたので現在は4人家族となっております。 職歴としましては、いずれも大手のゼネコンと呼ばれる会社でしたが、A社とB社の二つの会社に勤務して参りました。 最初はA社に24年間、次にBに8年間、二つの会社を通算しますと32年間在籍していたことになります。 仕事の内容は建築物の設計や工事管理が主なものでしたが、後半はプロジェクトマネージャー的な立場で業務に携わっておりました。 先ほど会社への在籍が32年間と言いましたが、この中には約2年の病気療養期間も含んでおりますので、仕事に従事していた期間は30年間ということになります。 B社に在籍していた平成8年頃から過重な業務が続き、年間の休みも正月の三が日と大晦日だけの4日間しか取れないような、非常に過酷な労働状態となりました。 そのような状況の中で平成9年4月、ある日突然、急性大動脈解離という心臓疾患を発症してしまいました。 心不全も起きてほとんど心停止の状態だったらしく、後から聞いた話では家族も私の死を覚悟し、親兄弟などの親族は全員喪服を準備して病院に駆けつけて来たということでした。 それほど厳しい状況だったのですが、10時間を超える緊急手術により奇跡的に救命され、この世に生還することが出来たのです。 発症当時の年令は46才でしたが、早いものであの時から7年の月日が流れました。 術後、5年経過時の生存率が20%を下回るということですから、私と同じ手術を受けた人は5人の内4人は5年以内に亡くなってしまう計算になります。 そのようなことはあまり意識しないようにしているのですが、術後の年数を重ねるごとに生存率は下がっていくわけですから、精神的には非常に辛いものがあるのは事実です。 一命は取り止めたものの心臓の大動脈弁を人工弁に置換し、大動脈も人工血管置換術を受けておりますので、心臓機能に著しい障害が残ってしまいました。 医学的には人工弁などの置換術を受けた時点ですでに症状が固定されたものとみなされ、身障者福祉法による身体障害者の1級に認定されております。 外見上は非常に元気そうに見えると思いますが、この身体は大動脈の残存解離もあり、表面も内面もボロボロに傷ついた状態のままです。 そのため、救命救急センターの主治医の先生からは、「いつ心不全を起しても、不思議はない状態であり、明日の命は保証出来ない。」と、このような厳しいことを言われております。 身体的な活動能力は病気になる前の約80%を喪失した状態ということで、現実問題として労働能力はほとんどありません。 したがって、健康で働くことが出来た第一の人生にはピリオドを打ち、サラリーマン生活を引退いたしました。 しかし、この身体にはまだ20%の活動能力が残っているわけですから、私はその20%の能力を最大限に活用して、社会に参加していきたいと考えておりました。 そのような中で巡り合ったのが千葉職対連だったのです。 私にとって、この千葉職対連は第二の人生を歩むのに最適な場所だと考えております。 現在は労災申請の手続きなど自分自身の経験を生かしながら、主に労災職業病の相談員活動などに携わっております。 |
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次に、労災申請の手続きと認定までの経緯についてお話ししたいと思います。 発症当時から、存命はしていても私のケースは過労死に準ずるものと確信していましたので、手術後の療養期間中に千葉労働基準監督署へ相談に赴きました。 しかし、労基署の調査官は発症前1週間の労働実態を重視する当時の認定基準を盾に、まともに取り合ってはくれませんでした。 私は社会の情勢などを考えると、近い将来、必ず認定基準が改訂されるとの予感がありましたので、記憶が鮮明なうちに労災申請に必要な資料収集を始めることにしたのです。 資料を集めながら図書館に通い、労災保険制度や、過労死、障害認定などに関する文献を手当たり次第に読みあさりました。 さらにインターネットでいろいろな情報を入手するなどして闘うための理論武装を身に付け、労災の申請から認定を勝ち取るまでの戦略構想をまとめることにしたのです。 まず手始めに読んだのは「労働基準監督署の監督官とは」という本でした。 私は、ここで発想の転換を図ったのです。 それは被災者として労災申請を行なう私自身が、労働基準監督署の認定業務を担当する調査官の立場に立って、申請資料を作成することが勝利への近道だと考えたからです。 過重業務を立証するための客観的資料や、医師の鑑定意見書などが添付されていて、その全てについて裏付け確認が出来る資料が提出されたとします。 さらに請求人が主張している過重業務の実態が、新たに改正されるであろう認定基準を完璧にクリアーしている場合、私が調査官であるならば業務上認定せざるを得ないと考えたのです。 5年という請求の時効が目前に迫った、平成13年12月12日、一日千秋の思いで待っていた認定基準の改正がついに実現し、そこには予想通り長期間の過重業務による疲労の蓄積も認定要件に追加されておりました。 私の場合、ここが正念場だと思いました。 それからの1ヶ月間、私は寝食をも忘れるほどに構想どおりの資料作りに没頭し、文字通り命をかけた、言い換えれば魂を込めた資料をまとめ上げることが出来ました。 労災の申請に伴う行政との折衝は全て郵便、電話、FAXでの対応としましたが、このことは決して労基署へ足を運ぶ労を惜しんだのではありません。 行政の管轄が八王子労基署だったのですが、当時の私の体調としては、住まいのある千葉から八王子までを往復する体力がなかったからです。 途中経過として、調査官に対してはとにかくこまめに連絡を入れ、資料を提出しても決してそのままにせず、読み終わった頃を見計らって読んでくれたかどうかといった確認の電話をしました。 そして次の追加資料を提出し、それを読み終わった頃にまた次の追加資料を出すといった方法で、調査官にはこちらの熱心さを真剣に伝えるように努めました。 このような密度の濃い折衝が有効であることは言うまでもありません。 申請から1年3ヶ月後‥‥今から約1年前の4月、業務上認定の通知書を受けた時、それまでの闘い方が間違っていなかったことが証明され、とりあえず一つの区切りを付けることができました。 発症してから丸6年‥‥長くて孤独な闘いでした。 たった一人で、何の武器も持たずハダカ同然でスタートしたのですが、独学で身に付けた理論と戦略が勝利に結びついたのだと分析しております。 それまで、私は家族に対して病人・身障者という負い目をいつも感じておりましたが、このことによりそういう思いから少しは解放され、その原因が働き過ぎであると国が認めてくれたことで、ある面では名誉の回復も図れたと思っています。 しかし、これは私の個人的問題だけにとどまるものではありません。 過労死とか過労自殺、そして私のような過労障害といったものは社会問題になっているわけですから、私はこの経験を生かしながら何らかの形で行政への働きかけを行なうなど、社会を変えていくための活動をしていかなければならないと考えております。 |
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1)まず、臨死体験についてお話します。 私は発症当時二度の臨死体験をしました。 @一度目は発症直後、心臓付近の激痛に耐えかねて失神したときのことでした。 救急車のサイレンが近づいてくる音、救急車に乗せられる様子。 救急隊員の「三次直送っ!」という言葉、そして妻の叫び声。 三次とというのは、重篤患者を受け入れる救命救急センターのことだそうです。 苦しんでいる自分の姿と救急隊員と家族の声、この様子を部屋の天井あたりで見聞きして一緒に救急車に乗り込む別の自分がいたのです。 幽体離脱という言葉をよく耳にしますが‥‥振り返ってみると、あのとき私の魂はこの身体から抜け出して、いったん自分の周りをさまよっていたのだと思います。 A二度目は、手術中か手術直後のことだと思いますが私は夢を見ていました。 私は荷物を背負って小舟に乗り、「今日中に、向こうに行かなければならない。」と言って、まるで台風のような暴風雨で荒れ狂う向こう岸に向け舟を出そうとしていました。 そのとき、「こんな、嵐の日に行くのはやめて‥‥天気が回復してからにしなさいよ!」という妻の声が聞こえ、ロープでこちらの岸に舟を引き寄せられました。 もしもあのとき舟出をしていたら、間違いなく「あの世」に行ってしまったのだと思います。 この臨死体験は、単身赴任先へ今日中に荷物を持って行かなければならないことなどが脳裏にあったからだと思います。 どこか現実の世界とオーバーラップしているような気がして、忘れることが出来ない不思議な体験でした。
2)奇跡の生還についてお話します。 先ほども述べましたが、私は10時間を超える緊急手術で奇跡的に救命されました。 しかし、私はどうして助かったのでしょうか? その疑問を主治医の先生にお聞きしたところ、秋山さんが助かったのは「とにかく運が良かった」と、その一語に尽きるとのことでした。 私が救命救急センターに搬送された時、心肺機能はほとんど停止状態だったとのことで、間髪を入れずに手術をするしか選択の余地はなかったそうです。 運が良かったということは、次の三つに集約されるとおっしゃっています。 @ まず一つ目は、発症時に家族がそばにいたから、すぐに救急車を手配出来たということです。 誰もいなかったら、その場で大動脈瘤が破裂し亡くなっていたはずだとのことでした。 A 二つ目は、救急隊員が救命救急センターへ直接搬送してくれたということです。 他の医療機関に搬送されたら、結果的に間に合わなかっただろうと言われました。 B 三つ目は、心臓血管外科のベテランの先生が、手術のためにわざわざ自宅から駆けつけてくれたということです。 その先生は学会での研究発表の予定をキャンセルして、難しい手術に対応してくださったそうです。 主治医の先生がおっしゃるのは尤もなことだと思います しかし、私は、ただ運が良かったというだけではなく、目に見えない偉大な存在のものから「何か、特別な役割と使命」を与えられ生かされているのだと受け止めております。 |
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次に、与えられた役割と使命というものについて、今、感じていることをお話します。 私は存命中ですが過労死を体験しました。 過労死からの生還者というのは希少な存在ですから、不幸にして亡くなられた方の立場に立って家族に対する思いなどを伝えていく責任のようなものを感じております。 さらに、生かされているということは、そのようなメッセージを伝える役割とは別に、過労死のない社会を築いていくための努力をする使命を与えられているのだとも思っております。 かけがえのない大切なご主人や息子さんが、ある日突然、仕事が原因で病気になり不幸にして亡くなられてしまった。 それも、「ありがとう」や「さようなら」の言葉もないままに‥‥ このようなことは、ご遺族の方にとってはどうしても受け入れられない出来事だと思います。 私は皆さんに伝えたい!‥‥亡くなられた方からのメッセージを。 これから私がお話することは、皆様方にもお心当たりがあるのではないかと思います。 どうぞ、私や亡くなられた方の思いなどをお聞きください。 |
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過労が極限に達したときの心理状態などについて。 @ 仕事中は気持ちのうえで余裕がなくなり常にイライラし、神経がピリピリしているような、そういった不安定な心理状態が続いておりました。 A 会社から帰宅してからは食事中も入浴中も、さらには寝ても覚めても仕事のことばかり考えておりました。 B 夢を見るのはいつも仕事のことばかりで、それも仕事に追いかけられているような、そんな夢ばかりでした。 C 次第に逃げ場のない、断崖絶壁に追い詰められたような、絶体絶命といった心理状況になっていきました。 D 半年以上の長期間にわたって不眠と頭痛に悩まされるようになってから、病気で倒れるかも知れないという言いようのない不安にかられるようになりました。 E もしかしたら病気で倒れるだけではなく、過労死してしまうのではないかという不安を感じておりました。 F 病気になる前や過労死をする前に会社を辞めるべきか‥‥とか、そんな弱気なことを考えるようになりました。 G この苦しさから逃れるには死ぬしかないのかな?‥‥‥などと、いつか現実逃避を考えたこともあります。 H そのような極限状態の中で、自分の担当する工事において労災事故が発生し、精神的にパニック状態になりました。 I このままの状態が続けば、待っているのは「過労死か過労自殺」しかないと思い退職することを考えるようになりました。 |
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そのような心理状態の中、家族とはどのようにかかわってきたか。 @ 会社から帰宅するのはいつも深夜であり、家族とは口もききたくないほど疲れきっていました。 A 家庭内での会話はめっきり減り、知らず知らずに一触即発しそうなギクシャクした夫婦の関係にもなっていきました。 B 以前は、食事の時は必ず「いただきます」とか「ご馳走様」とか「ありがとう」などという言葉をかけていたのですが、そのような言葉さえかけな くなってしまいました。 C たまに会話をする時も相手を威圧するような話し方になり、家族の心がバラバラになっていくのを感じました。 D 不眠と頭痛の症状を心配した妻が、病院へ行って検査をしてもらうように何度も勧めてくれましたが、そのたびに忙しくてそんな暇はないと突っぱねておりました。 E 二人の娘がそのような家庭の状況を見て、「こんなのは家族じゃない、もう、こんなウチ出て行こう!」と言った時、妻に対して「お前の育て方が悪いから、あいつらが、あんな勝手なことを言うのだ!」と八つ当たりしたことがあります。 F 土壇場に追い詰められて、過労死と過労自殺が頭をよぎった時、妻に退職する意思のあることを伝えました。 G 久し振りに夫婦で話し合いをして、退職する決心をしました。 このとき二人で泣きながら退職願を書いたことを、昨日のことのように思い出します。 H 結果的には、「何とか、年度末まで辞めないでほしい!」という上司の強い慰留に負けて退職の意思を撤回したのですから、夫婦の話し合いの効 果は全くなかったことになります。 I 家族とのかかわりも退職願の提出前と何も変わらず、家庭崩壊の危機を感じつつも仕事を続けざるを得ませんでした。 『仕事が人を変えてしまった‥‥ここまでくればもう完全に病気です』 |
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次に、過労が極限状態に達したときの心理状態や、そのときの家族とのかかわりなどについて、今、振り返って思うことが三点あります。 @まず第一点は、ある本にも書かれておりますが、過労死とはいわゆる『強制された自発性』という労働者が置かれている状況の究極の悲劇だと思います。 どうして、死ぬほどまで仕事をしたのですか? 何故そこまで、仕事をやらなければならなかったのですか? いろいろな方から今でも同じようなことを質問されます。 しかし、そこにはむずかしい理屈などはなく、ただ、そこに仕事があるからやっただけのことなのです。 定時に退社し休日もちゃんと休みを取って、無理のない仕事の仕方をしていると、こなしきれないほど仕事が溜まってしまうからなのです。 繰り返しますが『強制された自発性』という労働者が置かれている状況が、そのような仕事の仕方をさせるのです。 A第二点目は、過労死とは『成果主義賃金制』という、労働のシステムが生んだ悲劇だと思います。 業務効率を重視する企業の本質を考えると、業務処理能力の高い人に仕事が集中するのはごく当然のことです。 仕事が出来る人には次から次と仕事が持ち込まれ、やればやるほど仕事が増えていきます。 そして、いつしか、やってもやっても仕事が終わらなくなるのです。 成果が上がるかどうかが唯一の評価基準ですから、体力と気力が続く限り仕事をやらなければならないのです。 『成果主義』を基本とする現代の労働の仕組みが、過労死という悲劇を生み出しているのだと思います。 B第三点目は、『過重な仕事は人の心を変えてしまう』ということを、つくづく思い知らされました。 私は家族のために働いているつもりでしたが、長時間労働で妻や子供たちとのコミュニケーションを失って、家庭崩壊の危機を招いてしまいました。 そして、ついには健康を損ねて自分の命まで失いかけてしまったのです。 過労の極限状態のときは、精神的にも肉体的にも異常事態になっていますから心は完全に病んでおりました。 つまり、過重な仕事は人の心を変えてしまうのです。 |
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『私は是非伝えたい‥‥亡くなられた方からのメッセージ』 あの「運命の日」、私が倒れた日のことですが‥‥意識が遠ざかっていく中で、声にはなりませんでしたが私は家族に伝えたい言葉がありました。 その言葉は一瞬の内に脳裏を駆け巡りました。 苦痛に耐えかねて失神寸前の状況でしたが、その言葉は今でも脳裏から離れ ることなく鮮明に覚えています。 それは不幸にして亡くなられた皆さんのご主人や息子さんも、きっと私と同じ気持ちだったはずです。 私は過労死体験者として、亡くなられた方が家族に伝えたかった言葉、つま り「心の声」を伝えたいと思います。 亡くなられた方は、間違いなく次の五つの言葉を伝えたかったはずなのです。
@『妻よ、僕と結婚してくれてありがとう!』 A『子供たちよ、僕とお母さんの子供に生まれてくれてありがとう!』 B『僕は、君たちと一緒に暮らせて幸せだった!』 C『僕が死んだこと‥‥お願いだから、自分を責めないでほしい!』 D 最後に一言、『ありがとう、さようなら、またね!』
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| 連合会長&厚生労働省要請 (2006.10.24 テレビニュース) | |
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![]() TBSテレビ「ニュース23」より@ |
![]() TBSテレビ「ニュース23」よりA |
![]() NHKテレビ「ニュース7」より@ |
![]() NHKテレビ「ニュース7」よりA |
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労働時間規制の緩和、「導入しないで」 過労死遺族ら
(2006年10月24日 朝日新聞) |
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過労で心身を壊し労災認定を受けた人や亡くなった人の遺族らが24日、厚生労働省を訪れ、来年の法改正に向けて同省が労働時間の規制緩和策として検討している「自律的な労働制度」を導入しないよう要請した。遺族らは「労働時間規制がなければ過労死・過労自殺に拍車がかかるのは明らか。犠牲をこれ以上出さないでほしい」と、規制の厳格化や企業への罰則強化を求めた。
この制度は、一定の年収以上の労働者を対象に1日8時間などの労働時間の規制を外す仕組み。ゼネコンに勤務していた9年前に心疾患で倒れ1級身体障害者となった千葉市の秋山光夫さん(56)は、倒れる前の残業が月160時間を超え休みは年4日だけだったという。「成果主義で働く側は『自発的に働く』ことを強制されているのが実態だ」と訴えた。 遺族らはこれに先立ち連合本部に高木剛会長を訪ね、制度導入阻止を訴えた。高木氏は「時間外労働を放置したまま適用除外の対象を増やせというのは全く筋が通らない」と応じた。 |
| 過労死体験者からのメッセージ |
| 連合会長および厚生労働大臣要請文書 (2006年10月24日) |
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私は存命中ですが過労死を体験しました。緊急手術で奇跡的に救命されたとはいえ、高度の心臓機能障害のため著しい制限を受けての生活を強いられています。いのちの代償が肉体的にも精神的にも筆舌に尽くし難い苦痛を伴っているということを実感しました。「生きるも地獄、死ぬも地獄」の言葉を文字通り歩んだ数年間。過労死の世界から生還した私がここにいます。 細々とはいえ、生きているからには何らかの形で社会参加しなければなりません。「過労死体験者」としての使命や役割を果たすことも、私に与えられた重要なテーマです。過労死・過労自殺が大きな社会問題となっている昨今、私の体験は決して個人的問題では片付けられない出来事といえるでしょう。数少ない過労死の生き証人としての責任をどう果たすか、それが私の第二の人生における課題です。 そこで、現在は労災申請の手続きなど自分自身の経験を踏まえ、千葉労災職業病対策連絡会(略称:千葉職対連)に所属して労災職業病の相談員活動などに携わっております。究極の目的は、過労死や過労自殺をこの世の中からなくすことです。しかし、過労死や過労自殺の労災申請件数は年々増加の一途をたどっている現状を思うと心が痛んでなりません。 大切な家族が不幸にして過労死や過労自殺という悲劇に遭遇したら、遺された方々は途方に暮れます。それは何の前触れもない突然の出来事だからです。ご遺族の方々は、悲劇の原因をあれこれと思い悩み、いつしか自責の念にかられていくといったケースを幾度となく目の当たりしてきました。 何の言葉も残さず、不幸にして先立たれた方にしても無念の気持ちは一緒です。私は自分自身の体験に基づいて、同じような境遇で壮絶な最期を遂げたものの気持ちを遺された方々に伝えたいと思います。それが少しでも心の癒しになれば、過労死体験者の使命(役割)の一端を果たせるのではないかと考えるからです。その気持ちを「過労死体験者のメッセージ」と題してお届けします。 なお、文中の千葉労災職業病対策連絡会のホームページをご紹介させていただきます。 http://www.geocities.jp/chiba_syokutairen/ 私が作成・管理している稚拙なものですが、機会がありましたら一度ご覧ください。 |
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1. プロフィールと病歴 2. 疾病の発症 3. 臨死体験 4. 奇跡の生還 5.私の使命と役割 6.過労が極限に達したときの心理状態 7.そのときの家族とのかかわり 8.当時の気持ちを振り返って思うこと 9.大切な家族に伝えたいこと 10.まとめ |
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秋山光夫 ・千葉市在住 ・1950.7 山梨県生まれ ・20数年にわたり大手建設会社で設計および工事管理業務に従事 ・1997.4 過重業務が原因で心臓疾患を発症(急性大動脈解離:@) ・1997.10 @の疾患が急激に著しく増悪→再発(急性大動脈解離:A) 〔緊急手術で奇跡的に救命される(人工弁装着・上行大動脈置換術施行)〕 ・1997.10 人工弁装着のため心臓機能障害として1級の身体障害者となる ・1999.12 @が原因で脳血管疾患を発症(合併症:B) ・2003.1 Aが原因で別の脳血管疾患を発症(合併症:C) 〔穿頭洗浄トレナージ術施行:2回〕 ・2003.4 労災の業務上認定→→障害補償給付 ・2005.3 @の疾患に伴う疾患が増悪→再発(腹部大動脈解離:D) 〔腹部大動脈置換術施行〕 ・現在は「過労死体験者」として社会参加する生き方を模索中 |
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1996年頃から業務過重となり、年間の休みも正月の三が日と大晦日だけの4日間しか取れないような非常に過酷な労働状態が続いていました。 そのような状況の中、ある日突然急性大動脈解離という心臓疾患を発症。心不全も起きていたため心停止の状態に陥りました。後から聞いた話では家族も私の死を覚悟し、親兄弟などの親族は全員喪服を用意して病院に駆けつけて来たということでした。 それほど厳しい状況だったのですが、10時間を超える緊急手術により奇跡的に救命され、この世に生還することが出来ました。発症当時の年令は46才でしたが、早いものであれから9年の月日が流れ現在に至っております。 術後5年経過時の生存率が20%を下回るということですから、私と同じ手術を受けた人は5人のうち4人が5年以内に亡くなってしまう計算になります。年数を重ねるごとに生存率は下がっていくのは当然の原理ゆえ、精神的には非常に辛い状況に置かれているというのが偽らざる心境です。 一命は取り止めたものの心臓の大動脈弁を人工弁に置換し、大動脈も人工血管置換術を受けたため心臓機能に著しい障害が残ってしまいました。医学的には人工弁などの置換術を受けた時点で、すでに症状が固定されたものとみなされ、身障者福祉法による身体障害者の1級に認定されています。 外見上は元気そうに見えますが、大動脈の残存解離もあり、表面も内面もボロボロに傷ついた状態のままです。そのため救命救急センターの主治医からは「いつ心不全を起しても不思議はない状態であり、明日の命は保証出来ない。」と言われています。 最初の発症時の心臓手術により身体的な活動能力は約80%を喪失しました。さらに、その後の合併症などの手術で現実問題として労働能力は完全に喪失してしまったといっても過言ではありません。したがって健康で働くことが出来た第一の人生にはピリオドを打ち、サラリーマン生活を引退いたしました。 |
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昨今、わが国においては過労死・過労自殺が大きな社会問題となっています。その様子をNHKの国際放送局が、今年の8月に海外向けニュースとして紹介しておりました。その番組には私も短時間でしたが、過労死体験者として登場した経緯があります。 さて、私たちを取り巻く労働現場は過酷な状況がますます進行しているといっても過言ではありません。過労死や過労自殺が後を絶たない現状が、この問題の深刻さを物語っています。 そのような状況下、厚生労働省は一定以上の年収の事務職らを対象として、労働時間の規制を撤廃する制度の導入を検討しています。現状の問題を放置したまま、労働時間規制を緩和しようとする動きは、労働者にとって大変なリスクを背負わされることになります。 「今でさえ労働基準法が守られず、過重業務が横行しているのに、規制がなくなったらどうなってしまうのか?」。労働時間の歯止めがなくなれば、過労死・過労自殺は激増します。私のような過労死体験をする労働者が続出する世の中に、明るい未来を見出すことは不可能です。 労働時間規制を撤廃しようという流れは、行政が取り組まなければならない問題としては本末転倒しています。現状の労働基準法に定められている労働時間を遵守させることをテーマとして、何よりもサービス残業を許さないための法律の整備が必要ではないかと考えます。さらには懲罰規定を検討するなど、優先対応すべき事項が山積しているということを厚生労働省の関係者に理解を求めていかなければならないと思います。 過労死体験者としては、労働現場の現状に対して心の中で非常事態を宣言したい心境です。どうか、関係各位におかれましては、労働現場から過労死・過労自殺をなくすための取り組みにご尽力賜りますようお願い申し上げます。 以上 |