
学 級 紹 介
(山内先生による学級紹介)
| 【 私の宝者 (たからもの)・・・・・山内惟治 】 |
| 視聴者から依頼された「お宝」を鑑定する人気テレビ番組がある。時には、依頼者の予想価格をはるかに超える鑑定に会場は大いに沸く。こんなことは、わが家には決してあり得るはずもないのに、思わず床の間の掛け軸に目をやる自分が何とも浅ましい。しかし、このような「宝物」はないが、もっと高価な「宝者」はこの胸の内に一杯詰まっている。この「宝者」の値打ちは、あの鑑定団をもってしても、決して推し量ることはできない。 「あなたの宝は?」と問われれば、迷うことなく峡南高校時代の「教え子達」と答えるであろう。卒業以来それぞれ数十年以上経っても、今なお親交厚く、公私共にすこぶる頼りがいのある数多くの教え子達である。 私と峡南高校との関わりは、昭和38年、教職生活スタート以来の27ヶ年と平成8年に、校長として再赴任しての3ヶ年、合わせて30年間の在任である。したがって私の教職生活のほとんどは本校であり、私の教育観・教育信念は、本校の教育活動の取り組みの中で、何千にも及ぶ代々の生徒達、何百とも数えられる同僚・先輩教師達との貴重な出会いの中から培われた。 卒業生のうちでも、とりわけ強い思い出に残るのは、3ヶ年を以って5巡した学級担任時代に交わった生徒達である。若さ故に熱い思いをもって体当たりしていたあの頃の生徒達との絆はあまりに強い。あらゆる教育活動に共に汗し、ある時は落胆と挫折の中で涙に暮れた。励まし、誓い、努力し合い、そして喜びと感動を分かち合い、勝利と栄光に歓喜したあの頃の生徒達である。 そんな彼らも、峡南高校で培った負けじ魂、即ち「峡南魂」を抱いて社会に出たものの、時には建築現場における辛さに耐えかねることもあった。受話器の向こうで、込み上げる嗚咽を懸命に押し殺しては、苦悩と悲痛の思いを幾たび訴えてきたことだろうか。 反面、古い手紙を引き出して見ると、「前文略・・・・・決して負けたくありません。特に他から入った同期の二人を必ず越えたいのです。よく先生は僕たちに言いましたね。『大卒の連中には決して負けるな!』。この言葉が、今の僕の大きなエネルギーになっているのです・・・・・後略」。或いは、「前文略・・・・・いつも何とかなると、こんなのんきなな自分を引きずってきたまま、この厳しい世界に飛び込んできてしまいましたので本当に苦しんでいます。だけど、あの頃のクラスの合言葉、『いつか見ていろ俺だって!』を心の中で大きく叫んでいます。つぶれそうになったら、先生のあのデッカイ雷を落としてください。・・・・・後略」。 悩みつつも、いずれも前向きで、ひたむきな心意気が強く伺える便りを寄せるのであった。 正月や盆休暇ともなると、彼らは何十名と訪ねて来るのが例年の慣わしであった。さしずめわが家は卒業生のサロンか合宿所といったところであった。こうして会うごとに、力強く成長していく姿の中に、あの弱音を吐いた彼らの一部が結構大きな態度で居ることに苦笑しつつも安堵したものである。そして酌み交わすほどに建築技術の情報交換に花が咲き、励まし合い、夢を語るのであった。 複雑な組織と高度な建築技術が絡み合う厳しい現場で、苦しみ鍛えられている彼らとの交わりの中で、私自身、頭脳と心をどれほどリフレッシュされたか計り知れない。 今、私の「宝者」は、すべてが一家の立派な柱であり、なくてはならない企業の中核者として、或いは一国一城の主として、吹きすさぶこの逆風の中たくましく闘い歩み続けている。 大正12年の建学以来、80年の時の流れの中で、営々として築き上げられてきた本校の歴史は極めて重く、世に示し果たしてきた意義と役割はあまりに大きい。何ものにも屈せず、それぞれの時代を力強く支えてきた貴重な人材、貴重な宝を幾多輩出してきた我が峡南高校・我が山内学級は、いつの世にも不滅であり、なお燦然と輝き続けなければならないと切望して止まない。 |