
体験発表
(献血感謝の集い)
| テレビニュース (2009.10.28 ) |
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| 千葉テレビニュースより (再生が始まるまで10数秒かかると思われます) |
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| ドナー通信 (No.60) 〔千葉県赤十字血液センター発行〕 |
| メッセージ特集 手記〔生あるは献血のおかげ〕 |
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| 発表原稿 |
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体 験 発 表
《 生あるは献血のおかげ 》
秋山 光夫
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働き盛りの46歳のとき、私は過労死体験をしました。それは今から12年前、1997年4月のこと。三途の川まで行って、あの世を見てきました。あちらは嵐が吹き荒れる暗黒の世界。それに引き換え、こちらは桜吹雪が舞う春うらら。この世の方がはるかに住み心地は良さそうです。それなのに私は急き立てられるように、向こう岸に向かって小舟を出しました。 夢の中で誰かが叫んでいる声が聞こえます。「こんな、嵐の日に出掛けるのはやめて‥‥天気が回復してからにしなさいよ!」と。そして、ロープが投げられ、私が乗った小舟はこちらの岸に引き戻されました。奇跡の生還を果たした瞬間です。 このとき救急搬送された先は、千葉県救急医療センター。救急隊員による「三次直送」、という声が耳に残っています。その判断が生死の分岐点だったと思います。三次というのは、後で知ったことですが、「第三次救急医療施設」であり、高度救命救急センターを意味しているということでした。病名は、「急性大動脈解離」。心臓から全身に供給される血液の通り道の大動脈が裂けてしまう病気です。この第一次発症が発端で、その半年後の10月には緊急手術を受ける事態に発展しました。心臓の出口の大動脈弁は閉鎖不全に、さらには大動脈の解離が他の部位にも進行し、ほとんど心肺停止状態に陥ってしまったからです。 およそ10時間に及ぶ手術で救命はされたものの、心臓機能には著しい障害が残りました。外見上は元気そうに見えますが、実は、身体の内部はボロボロ状態なのです。大動脈弁は、機械的な人工弁に置換され、破裂寸前だった上行大動脈も人工血管に置き換えられました。私は、工弁によって生命が維持されているため、一種一級の身体障害者でもあります。 あれから12年の歳月が流れて行きましたが、これが私たち家族にとっては空前絶後の、「波瀾万丈人生の幕開け」となったのです。 |
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前述の人工弁置換術に伴い、各種降圧剤だけでなく抗凝結薬療法としてのワーファリンの服用が開始されました。原因は定かではありませんが、その後、1999年12月には、脳血管疾患の「椎骨脳底動脈循環不全」を発症。2003年1月から2月にかけては「慢性硬膜下血腫」という合併症も出現。頭の手術を2度も受けることになりました。 12年前の第1回目の手術以降、残存解離部分の大動脈については、半年ごとにCT検査などによる経過観察が行われています。通常、健康体の方の大動脈は直径がおよそ20mmから25mm程度だそうですが、私の場合、最初の解離で約40mmに拡大しました。その後解離した大動脈は、血圧コントロールの甲斐もなく一年に数ミリずつ拡大を続け、2005年3月には破裂の危険が高まったため、腹部大動脈の人工血管への置換術が施行されました。 あくまでも一般論ですが、解離性大動脈を発症した患者は、直径が60mmを超えると破裂の危険性が著しく増大すると言われています。大動脈が破裂したら、奇跡に次ぐ奇跡を乗り越えてきたこの命も、その瞬間終焉のときを迎えることになります。残存解離部分の大動脈はその後も拡大を続け、昨年(2008年)7月には直径が55mm程度になっていることが判明しました。主治医の先生からは、「このままの状態で何もしなければ、余命は1年ほど。もしかしたら、この冬を越せないかも知れません」と厳しい宣告を受けた次第です。このような経緯を踏まえて、昨年12月、ついにリスクの大きい下行大動脈の置換術が施行されました。これが、全身麻酔による5回目の手術でした。 この手術のダメージが想像以上に大きく、今度は声帯を司る神経(反回神経と言いますが)、その神経麻痺により声が出なくなってしまいました。「弱り目に祟り目」とは、まさにこのような状態のことを言うのだと思います。声が出ないだけならまだしも、飲食物を誤嚥する事態も頻発するため、このままでは肺炎を併発しかねません。そこで、つい最近、2度にわたって、声帯の手術を受けたのですが、残念ながら元の声を取り戻すことはできませんでした。本日の体験発表についても、音声障害のため大変お聞き苦しいものと思われます。そのような事情をご容赦いただければ幸いです。 しかし、私には、どのような身体的状態になろうとも、生き続けなければならない理由があるのです。続けなければならない理由が・・・。 |
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私が闘病生活を送っている中、2002年9月、信じられない出来事に遭遇してしまいました。当時28歳、まだ結婚後間もない息子(長男)が私の後を追うように「急性大動脈解離」を発症したのです。緊急手術で一命は取り留めましたが、何の因果か私と同じように若くして身体障害者になってしまいました。 それからというもの、私と息子は毎年のように交替で入院・手術を繰り返しています。息子は、最初の発症から4年後の2006年6月に腹部大動脈置換術、その翌年の2007年1月に下行大動脈置換術を受けました。とりわけ、2007年の手術は壮絶を極めるもので、術後の20日間は集中治療室で植物人間のような日々を送ることになったのです。主治医の先生からは、手術中に脳梗塞を発症したことも告げられ、たとえ救命されたとしても何らかの障害が残ることも覚悟させられる事態になりました。 そのような状況下、肺炎を併発したため、意識が戻らない中で再度の手術を施行。さすがに、このときばかりは私たち両親も「もうダメか?」と諦めかけたものです。しかし、毎日、午前と午後の面会は欠かさず、そのたびに息子の手足を擦りながら、「死んではダメだよ。眼を覚ましてくれ。そして生きてくれ!」と囁き続けました。 私たち両親は、息子がたとえ寝たきりになったとしても、「生きていてくれるだけで良いから・・」と、ただただ祈り続けたのです。生きてさえいれば、私たちが息子の手となり、足となり、目や耳や口になって支えていこうと約束をしました。 そして迎えた術後21日目、奇跡が起きました。突然、息子は3週間の昏睡状態から目覚めたのです。そのとき、わずかながら手足を動かし、問いかけにも多少反応してくれました。千葉県救急医療センターの先生方も、息子の意識を確認し、ここでやっと「救命宣言」をしてくださいました。寝食を惜しまず、息子の面倒をみてくださった先生方には、ただただ感謝するばかりです。 それからの息子の回復ぶりは目覚ましく、意識を回復してから2ヶ月後には職場復帰を果たしました。幸いなことに、致命的と言えるような後遺症も残りませんでした。これも奇跡です。この息子が私の後ろ姿を見ていると思うと、私は父親として、また同じ病気の先輩として、これからの人生、病気と闘い続けていかなければなりません。これが、私の生き続けなければならない理由です。 |
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これまでお話させていただいたように、私と息子は何度となく死の淵をさまよいながらも、その都度奇跡を乗り越えて今こうして現在を生きています。いえ、自分の力で生きているのではありません。今回の「千葉県献血感謝の集い」の機会に接し、私は、尊い献血をしてくださった皆様方によって生かされているということを痛感させられました。 私の手術時の輸血量は、赤血球:6単位、凍結血漿:20単位、血小板:20単位ということでしたので、単純計算では延15名の方々から合わせて5000mlを超える献血を頂戴したことになるそうです。これとは別に、息子の手術時の輸血量は大変なものでした。赤血球:64単位、凍結血漿:78単位、血小板:50単位ということで、こちらは延76名の方々から合わせて28000mlもの献血を頂戴したことになるとお聞きしました。それぞれの輸血量を合算すると、私たち親子は、延91名の方々から、33000mlという、気が遠くなるような貴重な献血を頂戴したことになります。 私は体内の血液が1回入れ替り、息子は7回も入れ替わるほどの大量輸血を受けたことを知らされたとき、私は、ただただ驚くばかりでした。私たち親子は、善意の献血のおかげで命が救われ、今、こうして生かされています。私たちは、献血にご協力くださった大勢の方々の顔を思い浮かべながら、これからの人生を大切に生きていくように努めます。 今もどこかで、献血のおかげで命が救われている方々がいると思います。また、闘病生活を余儀なくされている方々もいらっしゃることでしょう。私は、このように健康を取り戻しつつありますが、それも“尊い献血があったればこそ”との認識を深めることができました。 最後になりますが、私は、尊い献血を頂戴したものとして、そして、病と闘っている方々を代表して、献血にご協力くださった皆様方、さらには献血推進に関わる全ての方々に心から感謝の言葉を申し上げます。ありがとうございました。 |